先日、吉益東洞の墓を訪ねてきました。
東洞は1702年に安芸国山口町(広島市中区橋本町付近)に生まれ、1773年に京都で没した。東洞は19歳より刀傷を治す外科医、産科を学んだ。37歳の時に、家族を連れて上京したが、医業は振るわず、借家住まいで貧困極まり、人形造り、鉢皿を焼く内職をしていました。
44歳の時に、ある商人の病気の老母に処方されていた薬を正したところ、それを処方していた宮廷侍医山脇東洋がそれを称賛、東洞の処方を称揚し世に広めました。その後、東洞の医業は大いに繁盛し、大名からも往診を依頼されるようになりました。
東洞は目に見えないものは一切、相手にしない、目で見ることのできないものは医の対象にならないと訴えて、それまでの既成概念、伝統を無視した理論を唱えていました。
この時代にこのようなことを唱えるのはすごい事で、要は今日の医学と同じように、実証できないものを否定したのです。これにより、日本の医学が少し立ち止まって考える事になり、当時長崎から経由してもたらされたオランダ医学(蘭方)の移入が容易になったと考えられています。
「漢方」という言葉はもともとあったわけではなく、江戸時代にオランダから日本に伝わった西洋医学を「蘭方」と呼んでいたのですが、それと区別するために日本で独自に発展してきた医学を「漢方」と呼ぶようになったと言われています。
お墓は東福寺の南端の荘厳院にあります。東福寺は京都屈指の紅葉名所で混雑するということでしたが、早朝に散歩するとほとんど人はおらず、良い散歩ができました。
ちなみに、ツムラ122排膿散及湯は吉益東洞の創方した漢方とされており、岡部医院でも使うことがあります。文字通り皮膚のできものなど、膿をだす効果を期待して処方します。乳腺炎、歯周病などにも効果が期待できると考えています。
岡部医院院長 岡部誠之介
2018年11月19日
吉益東洞(よします とうどう)の墓を訪ねる(犬山市 漢方 内科 岡部医院)
posted by okabeiin at 08:21| 漢方内科